師走の仕事
師走に入りドッとあふれ出てきたのが庭や畑に植わっている樹木の剪定だ。
梅と柿はそれでも11月中に終えてあったので、後は雑木と庭の木々に絞
られる。いずれも時期が重なりそれぞれが大木、老木なのでそれなりの時間
は掛かるが避けては通れない。
体力があれば来年も同じことをするはずなので、参考にそれぞれの剪定後
を残しておこうと思う。
左上から梅ー松―柿ー紅葉―シマトネリコーキンセンカ
梅;手前が梅木、向こう側の陽が当たっている木が次郎柿の木でいずれも50年以上の老木で柿の木は折れやすく危険だ。
松;幹の苔は落としている暇がなくそのまま。右の真木の木はまだこれからの作業になる。
柿;こちらのふゆう柿はすでに70年以上のレジェンド態
紅;紅葉最盛期を過ぎて、今年初めての剪定になった。ところどころに枯木が目立った。
シマトネ;寒さに弱く冬の剪定は軽く済ませるのが良いとされているが、これも初めての剪定で伸び放題になった輪郭を整理すべく中強剪定に近い結果となった。
キンセンカ;もっとこじんまりとしたらと、近所の人が言うが秋の花の香りはまた格別でその気になれない。
あと残っているのが垣根の真木とヤマボウシ (・_・;) ーシマトネ同様にかなりの強硬となろうのう。
梅と柿はそれでも11月中に終えてあったので、後は雑木と庭の木々に絞
られる。いずれも時期が重なりそれぞれが大木、老木なのでそれなりの時間
は掛かるが避けては通れない。
体力があれば来年も同じことをするはずなので、参考にそれぞれの剪定後
を残しておこうと思う。
左上から梅ー松―柿ー紅葉―シマトネリコーキンセンカ
梅;手前が梅木、向こう側の陽が当たっている木が次郎柿の木でいずれも50年以上の老木で柿の木は折れやすく危険だ。
松;幹の苔は落としている暇がなくそのまま。右の真木の木はまだこれからの作業になる。
柿;こちらのふゆう柿はすでに70年以上のレジェンド態
紅;紅葉最盛期を過ぎて、今年初めての剪定になった。ところどころに枯木が目立った。
シマトネ;寒さに弱く冬の剪定は軽く済ませるのが良いとされているが、これも初めての剪定で伸び放題になった輪郭を整理すべく中強剪定に近い結果となった。
キンセンカ;もっとこじんまりとしたらと、近所の人が言うが秋の花の香りはまた格別でその気になれない。
あと残っているのが垣根の真木とヤマボウシ (・_・;) ーシマトネ同様にかなりの強硬となろうのう。
版半農業32
いつの間にか11月の真っ只中に!暑さの衰えを知らぬ10月の空気がつい昨日までそこにあったというのに。今は、冬野菜への仕掛かりで1日がアッという間に過ぎている。毎日が同じ光景なのにシッカリと作業の跡が刻まれている。
同時に腰に痛みが刻まれ広がっていくと、そこに時が確かに刻まれていることをよりハッキリと実感する。これらの刻印がなかったら現今の一日とは10年間にも及ぶことになるとさえ思える。
これはまさに棺桶に横たわる自らを眺め入る気持ちにも似ている。
だが、それは気力が失せているわけではなくむしろ、トータルで満たされているがゆえに行く先々を、日々を、瞬間に変えてしまう意識の中に在る、といった速度が生み出しているものだと感じている、正直それが今の素直な感じだ。
来春へ向けての版画制作も忘れているわけではない。下絵も出来て、大伴の原銅板も手元にあり磨き始めている。
富士冠雪 雨をこらえた後に 秋きゅうり
同時に腰に痛みが刻まれ広がっていくと、そこに時が確かに刻まれていることをよりハッキリと実感する。これらの刻印がなかったら現今の一日とは10年間にも及ぶことになるとさえ思える。
これはまさに棺桶に横たわる自らを眺め入る気持ちにも似ている。
だが、それは気力が失せているわけではなくむしろ、トータルで満たされているがゆえに行く先々を、日々を、瞬間に変えてしまう意識の中に在る、といった速度が生み出しているものだと感じている、正直それが今の素直な感じだ。
来春へ向けての版画制作も忘れているわけではない。下絵も出来て、大伴の原銅板も手元にあり磨き始めている。
富士冠雪 雨をこらえた後に 秋きゅうり
秋のいざない
文学と版画展No9ーその省察
現在、並行して進めている作業は『詩画集』と次期個展を見据えてのことであるが、その前に 先の『文学と版画』展について少し感じていることを付け加えておきたい。
この企画は本を読んだ印象の極私的表現で、そこは新たなる表現の発見や自ら気づいていない非日常との出会いを求める場ともなりうる。この事は本を鏡としてその印象を映し出し新たなる表現の場に、日常の見方を捉え直す思いの場とも考えている。
もし仮に私が本からの印象を通常制作している表現スタイルに合わすべく、同調、共鳴あるいは変調して表現した場合、私はこの企画の主旨に沿った制作をしているといえるだろうか?
―ということなのだ、この問いかけは実は最初からあった。
来年10回展を迎える『文学と版画展』について、せっかくの企画に対し今までの反省をして臨みたいと思う。
本を読んだ印象が表現方法に拘りなく制作出来ただろうか。表現に本を合わせてはいないか、印象をスタイルに合わせてはいないだろうかなどと・・・
この企画は本を読んだ印象の極私的表現で、そこは新たなる表現の発見や自ら気づいていない非日常との出会いを求める場ともなりうる。この事は本を鏡としてその印象を映し出し新たなる表現の場に、日常の見方を捉え直す思いの場とも考えている。
もし仮に私が本からの印象を通常制作している表現スタイルに合わすべく、同調、共鳴あるいは変調して表現した場合、私はこの企画の主旨に沿った制作をしているといえるだろうか?
―ということなのだ、この問いかけは実は最初からあった。
来年10回展を迎える『文学と版画展』について、せっかくの企画に対し今までの反省をして臨みたいと思う。
本を読んだ印象が表現方法に拘りなく制作出来ただろうか。表現に本を合わせてはいないか、印象をスタイルに合わせてはいないだろうかなどと・・・